先日の夕方、事務所一階のコンビニで知り合いの人と偶然
居合わせた。お腹が空いておやつを仕入れに来たらしい。
ちょっと話を5分ほど聞いてほしいと突然に言われた。
「どんなお話ですか?」とも聞かずにうちの事務所に入った。
信心のことで実は、密教なんだけど自分と一緒に道場へ
行かないかというお誘いの話だった。
月に最低一度だけ顔を出すだけで「心にゆとりが生まれる」
というのである。修行は道場の掃除、床や柱を磨くことから
はじまると言う。無心になって邪心を払うことが先祖を
云々、上級者からの面接があり心の持ちようが教えられ
有意義であるという話の展開だった。
「信仰」とは「信心」とは何か、よく解らないが知人の話を
疑いの心を持たずに聞いてあげることが「信心」であると
気づいた。同じことを何度も繰り返し、額に汗して説明を
してくれている。
30分ほど経って一通り話が終わったところで「じぶんの知り
うる知識をもって人に勧めることが自身の"得"を得ることに
なるんですか?」みたいなことを聞いた。
多くの人に勧め説くことがまた、自身の修行であるらしい。
宗教心に厚い人のことはキライでは無いのだが、じぶんの
言葉を失ってしまって教典に書いてある文言だけで会話
する人のことは好ましく思っていなかった。
いろんな宗教を「信仰」している人が回りに実に多くいる。
いまの自分は「信仰」するものを持たないが、なにかを信心
するのでは無く信心になることで良いのではないかと思う。
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4 件のコメント:
疑いも無く
何かを信じ込めるという事は
ある意味 幸せなんかなぁ?と思う。
そこに逃げてるだけで無ければ良いのだが。
僕は特に何かを信仰してはいないのですが、
宗教哲学には興味がありますし、
宗教家の話を聞いたりするのは嫌いじゃないのですが、
布教活動をしてる人の話を聞いてるうちに、
僕からすればいるんだかいないんだか分からない神仏が、こう仰っていますとか、
だからあなたも、〜すべきだ、
みたいな話になってきて、
だんだん嫌になってくるんですよね。
そんなわけで、ken さんの仰る『信心』は、僕にはないようです^-^;
はやひでさん◆
たしかに、信じる者は救われる。
でも、私は何も信心はしないように思います。
はいどさん◆
こんにちは、お返事遅くなりました。
今度はオフ会、大阪でやりましょう。
どこをご案内すれば良いか迷いますけどね。
高校生のころ、カリスマ的な宗教家の人のお話を聞いたことがあります。
数日間、クリスチャンになろうと真剣に思ったことがありました。
宗教家の人格が大いに影響を与えると思いました。
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